こんばんは。土屋 (@tutinoko310)です。
先日テレビを見ていたら「ビリギャル」のモデルとなった小林さやかさんが出演していて、
受験当時の様子を語る番組を見つけました。
映画も本も見ていないのですが、ちょっと気になって最後まで見てしまいました。
映画や本を見た方は内容をご存知だと思いますが、
学年ビリのギャル女子高生が一気に偏差値40を上げて、
慶応大学の受験に合格したという実話を基にした話です。
慶応大学は日本トップクラスの私立大学、
クラスで勉強ができる方だったとしても、合格は難しいレベルの大学です。
その大学に、ほとんど勉強ができない状態から、
短期間で合格にたどりついたというまるで映画のような本当の話。
下から這い上がって成功するというストーリーは映画化しやすく好まれるので、
こうして映画になり、書籍化されるのは自然の流れだと思います。
さて、この番組を見ていて少し気になった部分があります。
それは、小林さんの大学合格ことを「奇跡の合格」と表現していたことです。
この「奇跡」という言葉がどうにもひっかかりました。
自分は奇跡なんて世の中にはほとんど存在しないと思っていて、
結果には必ず原因があるという考えを持っています。
小林さんが大学合格を果たしたのは、
単に運が良かったわけではなく、周りのサポートがあっただけでなく、
本人がそれだけの努力をして、行動しつづけた結果です。
それは奇跡でも何でもない、日々の行動によって生まれた結果です。
見事なまでの逆転劇を「奇跡」と表現したくなるのもわかりますが、
奇跡という単語は、その背景にある努力や行動を無にするくらいの力がある気がして、
納得できない気持ちで見ていました。
高校の時の英語の先生は、
「奇跡とは一生のうちに1回起こるかどうかの偶然」
と表現して、確かにそうかもしれないと当時思っていましたが、
今になってみてもその言葉は正しいと思い続けています。
最近は奇跡という言葉があふれかえっていて、
大学時代の友人が「奇跡のインフラ現象」と呼んでいたように、
奇跡の価値はどんどん低くなっているような気がします。
安易に奇跡と表現せずに、
その奇跡をもたらした行動が評価されるような、
そんな風潮になってほしいものです。
では、明日も良い1日になりますように。
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